今日は、なにノムノ?
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ボルドーワインの格付けと歴史

ボルドー、サンテミリオンの夜明け

フランスでシャンパーニュ、ブルゴーニュに並ぶ銘醸地として有名なボルドー。この記事ではその歴史について迫ります。

1, ボルドーワインとは

ボルドーワインとチーズの盛り合わせ

ボルドーの基本知識

まず、「ボルドー」とはフランスの南西部に位置する地方を指します。その名前の由来は「水のほとり」(au bord de l’eau)という古語からきていると言われます。

ボルドーはブルゴーニュと並ぶフランスの銘醸ワイン産地として知られていますが、両者は様々な点で異なります。栽培品種としては、ボルドーは白葡萄がソーヴィニョン・ブランとセミヨン、黒葡萄はメルロとカベルネ・ソーヴィニョンを主とし、ブルゴーニュは白葡萄はシャルドネ、黒葡萄はピノ・ノワールとガメイを主とします。また、ボルドーは複数品種をブレンドするのに対し、ブルゴーニュでは基本的に単一品種でワインを醸造します。

栽培面積は119,000 haで、黒葡萄が栽培の90%を占めます(2016年OIVデータより)。

ボルドーワインの主な産地

ボルドーのAOCは5つの地区に大別できます。ガロンヌ川とジロンド川の左岸に位置しカベルネ・ソーヴィニョンを主体とするメドック&グラーブ地区、ドルドーニュ川の右岸に広がりメルロを主体にするサン・テミリオン、ポムロール、フロンサック地区、3本の川沿いの右岸の丘陵に点在するコート地区、ガロンヌ川とドルドーニュ川に挟まれ、白と赤ワインの両方を産出するアントル・ドゥー・メール地区、ガロンヌ川の左岸で貴腐葡萄から甘口の白ワインを生み出すソーテルヌ・バルサック地区に分けられます。

2, ボルドーワインの格付け

ボルドー、マルゴーのシャトー

格付けとその歴史

それでは格付けとその歴史について整理してみましょう。

1855年のパリ万国博覧会の際に、ナポレオン3世の命を受け、ボルドー市の商工会議所がジロンド県の格付けを作成しました。これは当時確立されていた生産者の名声とワインの取引価格に応じて作られたもので、19世紀にボルドーから輸出されていたのがメドック地区の赤ワインとソーテルヌ・バルサック地区の甘口白ワインであり、この2地区のシャトーが1855年の格付けに選ばれる結果となりました。右岸のワインはリブルヌで取引されていたため、ボルドー市のワイン商は考慮に入れませんでした。

第1級から第5級までの5段階に分けられ、現在61シャトー(グラーヴ地区のシャトー・オー・ブリオンを含む)が認められています。

1級は五大シャトーとして知られ、シャトー・ラフィット・ロートシルト、シャトー・ラトゥール、シャトー・マルゴー、シャトー・ムートン・ロートシルト、シャトー・オー・ブリオンが認められています。

シャトー・ムートン・ロートシルトが1973年に第2級から第1級に昇格した以外では、1855年からの変更はありません。また、グラーヴ地区では、1953年に制定、1959年に修正され、現在16シャトーが認定されています。

サン・テミリオン地区では1954年の政令で格付けが公布されました。その他の地区の格付けと大きく異なる点は、生産者主導で10年に1度見直される点です。2012年の見直しが最新で現在、プルミエ・グラン・クリュ・クラッセ(AとB)にそれぞれ4シャトーと14シャトー、グラン・クリュ・クラッセに64シャトーが認められ3階級に分かれます。

ソーテルヌ・バルサック地区では甘口ワインに対して、1855年にメドック地区の赤ワインとともに格付けが制定され、それ以降の変更はありません。

特級にはシャトー・ディケムのみ認められ、第1級に11シャトー、第2級に15シャトーが認められています。

また、メドック地区では正確には格付けではありませんが2つの認証が存在します。「クリュ・ブルジョワ」と「クリュ・アルティザン」があり、それぞれメドック地区の8つのアペラシオンに認められています。

「クリュ・ブルジョワ」には以前には「クリュ・ブルジョワ・エクセプショネル」「クリュ・ブルジョワ・シュペリュール」「クリュ・ブルジョワ」の3つのカテゴリーがありましたが、現在は1つの認証として「クリュ・ブルジョワ」が存在しています。「クリュ・アルティザン」は畑の面積が5 haに満たない小規模で秀逸な生産者が認証されます。

シャトー・ムートン・ロートシルトが格付けを見直された理由

シャトー・ムートン・ロートシルトの格付は1855年では2級でしたが、そして1973年に1級昇格を果たしましました。

ムートンが1級になれなかったことについて様々な説があります。「シャトーがなかったから」という説は、ラトゥールでもシャトーができたのが1864年なので当てはまりませんし、「フランスのライバルであるイギリスのロンドン・ロスチャイルド家のナタニエルがオーナーだから」という人種や国籍を理由とする説も根拠のない誤りです。

ラフィットの当時のオーナーはイギリス人(後に傀儡と判明しましたが)という事実もあります。この時期に「ムートンの品質が下がった」という説もありますが、それならオー・ブリオンのように価格が下落するはずですが実際の価格からは証明できません。

また、当時の格付けは価格によって決められていました。1834年から54年までの平均価格はムートンで1,499フランで、1級の平均価格2,000フラン以上と比べて1段階低く、同時期の2級ワイン、レオヴィル・ラス・カーズの1,422フラン、ピション・ロングヴィル・バロンの1,393フランと価格はほぼ同等であると言えます。

ムートンの2級筆頭は、価格によって決められた必然の結果であると言えるでしょう。

そしてムートンの1級昇格は4代目オーナーのフィリップの努力によるものと言われています。シャトー元詰めをはじめとする彼のボルドーワインへの貢献は誰も否定することができません。品質を高め、販売価格を1級シャトーと同等もしくはそれ以上に導き、格付け変更の権限の所在すらわからない中で、各方面にそれだけの根拠を積み上げたのです。そしてムートンは1971年に昇格を決めました。

しかし、それは1855年の格付け全体の変更を含意していますので、他のシャトーから多くの非難を浴びました。これに納得できないフィリップは格付け変更プロセスのやり直しを提案し、1度昇格を蹴りました。

1855年の格付けを見直すという方針は全シャトーの承諾を得ることができ、5つのクラスごとに、そこに属するシャトー全ての同意を得れば新たにその格付けに参加できるという決まりを作りました。

つまり今度承認を得るのは4シャトーのみ。彼らと共同で品質向上に取り組んできたフィリップの参加は拒絶されません。その結果が1973年の格付け1級の獲得というわけなのです。

格付け外のシャトー

ここでは、格付け外ながらも、高い評価を得ているシャトーをご紹介します。

○シャトー・ペトリュス

世界最高峰のグラン・ヴァンとして名高い、シャトー・ペトリュス。

ロバート・パーカーはボルドー第4版で、「ペトリュスはワインというよりも神話の象徴」と賞賛しています。

このシャトーのあるポムロール地区には格付けはありませんが、ボルドーワインとしては最高値で取引されます。畑の広さは11.4 ha。その95%がメルロー、5%はカベルネ・フランが栽培されています(作付比率であって、ペトリュスにカベルネ・フランがブレンドされるのは稀です)。

○シャトー・ラフルール

先述のペトリュスに迫る実力を有すると評価される、右岸エリアトップクラスのシャトー。

ポムロール地区に僅か4.5 haを所有しており、生産本数はペトリュスよりも少なく、希少性が高いワインです。作付比率はメルロー50%、カベルネ・フラン50%です。特にカベルネ・フランを生かしたエキゾチックなアロマを持ち、香りは多くのヴィンテージでペトリュスを凌ぐとさえ評価されています。

○シャトー・ソシアンド・マレ

原産地呼称名はオー・メドックですが、サン・テステフ村に隣接するサン・スラン・ド・カドゥルヌ村で、ジロンド河を望む絶好の立地にあるシャトーです。力強く濃密なモダンスタイルが人気で、格付け2級もしくは3級並みの評価を受けています。ブルジョワ級エクセプショネルの筆頭格と讃えられてきましたが、2003年に認定申請を辞退し、現在は格付けがありません。

○シャトー ・シャス・スプリーン

メドック地区ムーリス村に位置するシャトーで、格付け3級並みの評価を受けています。ブルジョワ級エクセプショネルとして讃えられてきましたが、2008年の制度変更に伴い認定申請を辞退し、現在は格付けなしとなっています。シャトー名は詩人ジョン・バイロンがボードレールの詩に因んで「憂鬱を払う」と称賛したことによると言われています。

3, ボルドーワインの歴史

ボルドーのぶどう畑

ボルドーワインの繁栄に関わった人々

この地域の歴史は紀元前3世紀にビトゥリゲス・ウィヴィスキ族によってブルディガラ(ラテン語でボルドー)の町が築かれたことから始まりました。このケルト部族は葡萄栽培をしていたようで、特にビトゥリカ種(カベルネ種の先祖という説もある)が栽培されていたようです。

その後もワイン生産は途絶えることなく、1152年には大発展の契機を迎えました。ボルドーを含む一帯を支配していたアキテーヌ公国公爵夫人のアリエノールが、のちに英国王ヘンリー2世となるアンリ・プランタジュネと結婚し、アキテーヌ地方が英国領になったのです。そしてボルドーワインは英国との交易により発展していきました。

この交易は、1453年にフランスがイギリスとの百年戦争に勝利しアキテーヌ地方を取り戻すと終わりました。その後にボルドーとイギリスとの取引は再開されましたが、取引量が以前の水準に戻るまで200年の時を要しました。16世紀後半から17世紀に入ると、オランダとの取引が発展し、ボルドーは再び繁栄します。オランダ人は優れた干拓技術をボルドーにもたらし、メドックの多くの葡萄畑を開発しました。

18世紀にはボルドーはドミニカ共和国や小アンティル諸島への輸出を伸ばし繁栄の時代を迎えたのです。

1970年代まで品質は不安定でしたが、1980年代以降に目覚しい成長を遂げます。その品質向上の陰には、ボルドー大学教授で、「現代ボルドーの父」と称されるエミール・ペイノー氏やパスカル・リベロ・ガイヨン氏らコンサルタントの指導がありました。

彼らは研究の裏付けを元にシャトーに助言を与えました。「遅摘みによりフェノールの熟度を高め、早くから楽しめるなめらかなタンニンを得る」「収量を落とし、凝縮した果実にする」「厳しい選別を行い、未熟果や恵まれない区画のブドウはセカンドワインや売却用のバルクワインに回す」「熟成に使う樽は新樽比率を高めて過剰な濾過や清澄を避ける」といった、今では当たり前となった栽培や醸造の手法を普及させたのです。

1982年にはボルドーのワイン産業は大きな転換点を迎えます。

82年はその後の90年、2000、05、09、10、15、16というグレートヴィンテージの出発点でもありますが、同時に評論家のロバート・パーカーを基軸とする新秩序が生まれた年でもあります。

プリムール・テイスティング * により、他の批評家が「長期熟成は望めない」と評価する中、パーカーは「世紀のヴィンテージ」と宣言し、後に認められ「ワインの帝王」となったのです。

*プリムールとは、ボルドーにおける独特の先物取引で、シャトーは収穫の翌年の春に樽で熟成中のワインを世界中のジャーナリストやトレードに試飲させます。彼らの反応をみて、ネゴシアンから市場の動向など情報を得て、売り出し価格を決めて発表します。つまり、現物がない段階での予約販売とも言えます。ボルドーではワインの販売までに約2年間かかります。その間も樽や薬剤の購入費や、人件費、広告費等の運営コストがかかるため、シャトーにとってはキャッシュフローがよくなることが最大の利点です。

パーカーはワイン・アドヴォケイト誌で100点満点方式でワインを評価しました(パーカーポイントと呼ばれる)。イギリス王室経済会議が「パーカーポイントの存在はボルドーワインの価格を15%押し上げる効果がある」と発表したことは有名です。

しかしそのパーカーも2015年にはプリムール評価から退いています。さらに、ワイン・アドヴォケイトでのワイン評論も2017年に10人のレビューチームに任せていて、2019年にパーカーはワイン・アドヴォケイトから正式に引退しました。

ボルドーワインの未来

ボルドーに限ったことではありませんが、気候変動の影響について考えなければなりません。気象学者が、今世紀中にボルドーの平均気温が3~4度上昇すると予想しています。

平均気温上昇に伴って、ボルドーワインが、グラン・ヴァンが備えるべき特有のバランスとフィネスを失うことが懸念されます。果粒が早く成熟しすぎると、糖分含有量が高まり、その結果ワインのスタイルが南方的になる可能性があります。

ちなみに、アメリカの南オレゴン大学の気象学者であるグレゴリー・ジョーンズ教授による最近の調査では、この50年間で、葡萄栽培に適する地帯が両極側に約180 kmも移動したことが確認されています。

今のところ気候変動はカベルネ・ソーヴィニョンとカベルネ・フランに有利に作用していますが、最初に犠牲になる葡萄品種は早熟のメルローでしょう。成熟を遅らせるために特殊な台木や株を使う、除葉の量を減らす、葡萄樹の背丈を低くする、さらには他品種への植替えなど何かしらの対策が必要になってくることでしょう。

■参考文献
ソムリエ協会教本2019
世界のワイン生産者400 (美術出版社)
ワイナート spring 2000 number 6 特集フランス・ボルドー五大シャトー(美術出版社)
ワインの世界地図(パイ インターナショナル)

記事内容は記事作成時点の情報となります。

ソムリエ柴田 郁也(Shibata Fumiya)
ソムリエ柴田 郁也(Shibata Fumiya)

フランス料理店勤務時にソムリエに憧れ勉強を始め、23歳で日本ソムリエ協会認定ソムリエを取得。都内のミシュラン星付きのフランス料理店やビストロを経て現在中目黒B.B.S.DINING.にてソムリエとして勤務。